中野歯科医院

昔,練塀町51番地に中野歯科医院がありました。中野歯科医院を開業したのは,中野末作(明治27年~昭和41年)です。中野末作は,大分県出身で東京歯科大学を卒業後,高橋くらと結婚しました。妻くらの実家(箱問屋の高橋商店)が下谷区御徒町(現在の台東区台東)にあったため,実家に近い下谷区練塀町で歯科医院を開きました。練塀町転入は,関東大震災後の大正12年です。以来,中野末作は名士として町の発展に貢献し,秋葉原町会(戦前の練塀町町会)の町会長,妻くらは万世橋母の会の会長などを務めました。

戦前の中野歯科医院は,昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失しました。戦後は,土地を買い足して応急的に建てた建物で中野歯科医院を再開し,昭和20年代後半に歯科医院を新築しました。その建物の写真が残っています(図1)。撮影の方向を,図2の赤い矢印で示しています。待合室が3畳,診療室が6畳程度だったと言われています。中野歯科医院は,昭和41年に中野末作が亡くなるまで続きました。

 

図1   戦後の中野歯科医院。石塀に立て掛けてある映画館の武蔵野館(昭和43年に新宿武蔵野館に改名)の看板には「白い崖」の文字が読み取れる。白い崖は昭和35年に製作された今井正監督の映画であることから,昭和35年頃に撮影されたと思われる。

 

図2   練塀町の地図(昭和29年)。赤い矢印は,カメラの向きを示す。青い点線で囲んだ部分は,現在再開発中の地区。

 

昭和40年代の末に中野歯科医院は取り壊され,そこに新築されたビルに入ったのが居酒屋の大八です(図3 )。大八は美味しくてボリュームもある地元の人気店でした。

https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131001/13025117/

 

大八は,そこで約40年営業を続け,再開発のため2016年3月29日に閉店しました。

https://pbs.twimg.com/media/Cdanj4XUAAAj0kx.jpg

 

図3  大八(平成24年撮影)

 

 

写真の提供と中野歯科医院のお話をして頂いた中野仁史氏(中野末作の孫)に感謝を申し上げます。

中野仁史氏の紹介:著述業。昭和36年2月13日,神田練塀町51で生まれる。昭和42年に九段南4丁目に転居するまで佐久間幼稚園(現在のいずみこども園)に通う。現在は文京区白山に居住するが,父の中野進(昭和3年~平成28年)から中野ビルを受け継いだことから,神田練塀町地区市街地再開発組合の幹事を務めている。

桐淵眼科

タイトル:桐淵眼科

昔,練塀町(現在は神田練塀町85番地)に桐淵眼科という病院がありました。

桐淵眼科の写真(明治時代)

練塀町の地図(昭和10年)
注1)桐淵眼科の場所を赤線で囲んだ。
注2)青字で書いたものは,平成30年1月現在にあるもの。

東京名所図会(明治41年,第382号)には,次のように書かれています。
「桐淵眼科医院は,下谷練塀町35番地,同院病室は59番地にあり。従来有名にして眼科専門の病院なり。院長は医学博士桐淵鏡次氏。入院料は,特等一日金三円,一等一円六十銭,二等一円,三等八十五銭とす。電話の番号は,病院の分下谷六十六,病室の分同一八七一なり。」

桐淵鏡次(明治3年~昭和6年)は,沼津出身で,桐淵光斉の養子になりました。明治27年に東京帝国大学を卒業し,明治30年にドイツに留学,帰国後は下谷練塀町の桐淵眼科病院を継ぎました。桐淵眼科は,戦災で焼失して再建されませんでした。

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kirihuchi_k.html

桐淵鏡次の息子光一は医者にならなかったようですが,医者になった子孫や親族がいて,今も桐淵眼科は岡崎や元住吉で続いています。

http://www.tkiribuchi.uh-oh.jp/kiribuchikakeizu.html

桐淵眼科があった場所は,戦後に農林省の輸出水産物検査所と輸出食料品検査所になり,現在はJEBL秋葉原スクエアになっています。

秋葉原スクエア(平成30年1月撮影)