関東大震災

 

図1は,関東大震災の被災状況を示した地図で,赤い部分は焼失した地域です。東京の東半分は,真っ赤,つまり焼けてしまったことがわかります。図2は,練塀町付近を拡大したものです。練塀町は,一部(今の再開発地域の南半分)を残して焼け,江戸時代を偲ぶ建物もなくなってしまいました。近隣の和泉町は,町民の必死の消火活動で延焼を免れました。

 

図1  東京大震火災地図,大正12年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。

 

図2  東京大震火災地図,大正12年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。練塀町を青色の実線で囲み,秋葉原貨物駅を赤色の実線で囲んだ。

 

図2を見ると,大正12年当時,秋葉原駅は貨物駅だったことが分かります。山手線は,まだ環状になっておらず,秋葉原貨物駅と神田駅は接続されていませんでした。また,大正12年当時,中央線には万世橋駅があり,東京駅→神田駅→万世橋駅→御茶ノ水駅を通っていました。

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秋葉原貨物駅の1階部分

図1の写真は,秋葉原貨物駅の1階部分の写真です。もう少し中に入って撮った写真が図2です。図2の写真で秋葉原貨物駅の奥に見える建物に,東京青果株式会社の看板が下がっているので,図3に示す方向から撮影した写真であることがわかります。

図1,図2は,重ね焼き写真ですが,どちらにもサンキスト(Sunkist)という文字が見えます。サンキストブランドの米国産レモン(サンキストレモン)が日本で本格的に販売されるようになったのは,神田青果市場ができた翌年(昭和4年)です。日本人の食生活が変化して,洋食に必要な柑橘類が好まれるようになったことと関係があります。昭和4年のサンキストレモンの輸入量は,1万カートン(1カートンは,16 kgの木箱入り)でした。それが,神田青果市場が移転した2年後の平成4年には,400万カートン(1カートンは,17 kgのダンボール箱入り)まで増えました。

 

図1  昭和60年代に撮影。倉田精二  AKB 80’sより転載

 

図2  昭和60年代に撮影。倉田精二  AKB 80’sより転載

 

図3  練塀町の地図(昭和29年)。青い矢印は,写真を撮った方向を示す。青い破線で囲んだ部分が東京青果。

 

東京青果は平成元年5月に大田市場に移転しました。東京青果株式会社があった場所は,現在大東ビルになっている辺りと推測されますが,昔のものは何も残っていません(図4)。

 

図4  東京青果株式会社があった辺りの現在の様子(平成30年8月撮影)。

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練塀町の路地1

図1の写真で足漕ぎ車を押している子どもは,中野仁史さん(当時三歳)です。着ているものは,佐久間幼稚園(現在のいずみこども園)のスモックです。写真奥には,秋葉原貨物駅(の屋根)とその手前にあった倉庫が見えます。撮影の方向は図2の地図に示す通りです。

 

図1  練塀町の路地(昭和35年撮影)。向かって右側は中野歯科医院,左側は西村家の大和塀。中野仁史氏提供

 

図2  練塀町の地図(昭和29年)。赤い矢印は,撮影の方向を示す。青く囲った線は,現在の富士ソフトアキバプラザを示す。

 

秋葉原貨物駅は,平成2年の神田青果市場の大田区移転に伴い廃止されました。その後,秋葉原貨物駅の地下は新幹線が通る第一上野トンネルになりました。また,貨物線の線路や倉庫が撤去された跡地には,富士ソフトアキバプラザなどが建てられました(図2)。

図1と同じ角度で撮影した写真が図3です。奥に富士ソフトアキバプラザが見えます。手前に見えるオレンジ・白・緑のひさしは, インドカレー屋のジャイヒンド (JAI HIND)です。本格的なカレーを提供する人気店でしたが,2016年1月に閉店し, 2016年3月29日から神田須田町で「アロマズ オブ インディア」として営業しています。

http://blog.livedoor.jp/ma888tsu/archives/52008683.html

 

図3  練塀町の路地(平成25年頃に撮影),中野仁史氏提供

 

写真を提供して頂いた中野仁史氏に感謝を申し上げます。

 

 

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