中西忠兵衛

 

江戸時代,下谷練塀小路に中西派一刀流の剣術道場(中西道場)がありました(図1)。中西派一刀流(中西一刀流)は第九代の中西忠兵衛(中西忠兵衛子正)の時代に隆盛を極め,江戸でも一,二と云われていました。中西一刀流は,小野一刀流の分派であり,中西一刀流からさらに分派したのが,北辰一刀流です。

北辰一刀流を創始した千葉周作(寛政5年(1793年)-安政2年(1856年))は,中西派一刀流の浅利義信(安永7年(1778年)-嘉永6年(1853年))に入門し,浅利義信の養子となり,義信の師匠である中西兵衛子正からも学びました。やがて独立して北辰一刀流を創始し,神田於玉ヶ池に玄武館という道場をつくりました。

千葉周作が自らの流派を開くことを決意したため,浅利義信は千葉周作を義絶しました。代わりに迎えられた養子が,中西忠兵衛子正の次男である兜七郎です。中西兜七郎は,浅利又七郎義明を名乗り,江戸無血開城に貢献した山岡鉄舟(天保7年(1836年) -明治21年(1888年))らを育てました。

浅利義信や千葉周作も通った中西道場,残念ながら跡は残っていません。

 

図1     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。中西道場を赤色で囲んだ。青色の破線は,現在再開発地区になっている。

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