練塀町の路地1

図1の写真で足漕ぎ車を押している子どもは,中野仁史さん(当時三歳)です。着ているものは,佐久間幼稚園(現在のいずみこども園)のスモックです。写真奥には,秋葉原貨物駅(の屋根)とその手前にあった倉庫が見えます。撮影の方向は図2の地図に示す通りです。

 

図1  練塀町の路地(昭和35年撮影)。向かって右側は中野歯科医院,左側は西村家の大和塀。中野仁史氏提供

 

図2  練塀町の地図(昭和29年)。赤い矢印は,撮影の方向を示す。青く囲った線は,現在の富士ソフトアキバプラザを示す。

 

秋葉原貨物駅は,平成2年の神田青果市場の大田区移転に伴い廃止されました。その後,秋葉原貨物駅の地下は新幹線が通る第一上野トンネルになりました。また,貨物線の線路や倉庫が撤去された跡地には,富士ソフトアキバプラザなどが建てられました(図2)。

図1と同じ角度で撮影した写真が図3です。奥に富士ソフトアキバプラザが見えます。手前に見えるオレンジ・白・緑のひさしは, インドカレー屋のジャイヒンド (JAI HIND)です。本格的なカレーを提供する人気店でしたが,2016年1月に閉店し, 2016年3月29日から神田須田町で「アロマズ オブ インディア」として営業しています。

http://blog.livedoor.jp/ma888tsu/archives/52008683.html

 

図3  練塀町の路地(平成25年頃に撮影),中野仁史氏提供

 

写真を提供して頂いた中野仁史氏に感謝を申し上げます。

 

 

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中野歯科医院北側

昭和20年代後半に中野歯科医院を新築するとき,中野末作は北側に新たに土地を購入しました。北側の土地に新築した建物は,一階の渡り廊下で南側の中野歯科医院とつながっていました。北側部分の建物のさらに南半分は,1階を中野進(中野末作の三男)が営む中野電気商会(電気工事業)が使用し,2階には中野進の一家が住んでいました。 一方,北半分は貸事務所になっていました。

北側にあった貸事務所の写真が残っています(図1) 。1階には,株式会社ナショナル寫真商會が入っていました。撮影の方向を図2に示します。株式会社ナショナル寫真商會は,白バイのハンドル部分に取り付けたカメラ(白バイのアクションカムの先駆けのようなカメラ)の修理をする会社でした。そのカメラは故障が多く,頻繁に白バイが止まっていたと聞きます。また,カメラ自体の性能も低かったため,数年で会社はなくなったようです。

 

図1  中野歯科医院の北側部分。写真を撮影した年は不明。写真の左端には,昭和33年に初代が発売されたホンダ・スーパーカブC100が写っている。一方,右端のスクーターは昭和35年に発売された新三菱のシルバーピジョンの125ccと思われるが,確実ではない。

 

図2   練塀町の地図(昭和29年)。赤い矢印は,写真を撮った方向。青い点線で囲った部分は,現在再開発中の地区。北の方角は,左方向。

 

その後,中野歯科医院が建っていた南側の土地は売却され,新しく建ったビルには居酒屋大八が入りました。一方,株式会社ナショナル寫真商會が入っていた北側の建物は,昭和51年に中野ビルになりました(図3)。中野ビルには,テナントとしてスポーツ用品を取り扱うハシスポーツ,ベアリング卸の黒田精機などが入っていました。また,中野ビルの管理をしていた中野くらの和室がありましたが,中野くらが亡くなった後は,オーディオ茂木の倉庫になりました。オーディオ茂木は,今も神田松永町で営業しており,店舗全体がショールームのようで実際に音を聞くことができます。

移転OPEN「オーディオもてぎ」さんを訪問

 

図3  中野ビル(平成24年撮影)。施工は,地元の甲斐工務店(神田練塀町57)。

 

中野歯科医院北側部分を同じアングルで撮影した現在の写真を図4に示します。

 

図3  再開発ビル北側部分(平成30年8月撮影)。施工は,前田建設。

 

 

写真と中野歯科医院に関する話題を提供して頂いた中野仁史氏(中野末作の孫)に感謝を申し上げます。

中野仁史氏の紹介:著述業。昭和36年2月13日,神田練塀町51で生まれる。昭和42年に九段南4丁目に転居するまで佐久間幼稚園(現在のいずみこども園)に通う。現在は文京区白山に居住するが,父の中野進(昭和3年~平成28年)から中野ビルを受け継いだことから,神田練塀町地区市街地再開発組合の幹事を務めている。

 

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中野歯科医院

昔,練塀町51番地に中野歯科医院がありました。中野歯科医院を開業したのは,中野末作(明治27年~昭和41年)です。中野末作は,大分県出身で東京歯科大学を卒業後,高橋くらと結婚しました。妻くらの実家(箱問屋の高橋商店)が下谷区御徒町(現在の台東区台東)にあったため,実家に近い下谷区練塀町で歯科医院を開きました。練塀町転入は,関東大震災後の大正12年です。以来,中野末作は名士として町の発展に貢献し,秋葉原町会(戦前の練塀町町会)の町会長,妻くらは万世橋母の会の会長などを務めました。

戦前の中野歯科医院は,昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失しました。戦後は,土地を買い足して応急的に建てた建物で中野歯科医院を再開し,昭和20年代後半に歯科医院を新築しました。その建物の写真が残っています(図1)。撮影の方向を,図2の赤い矢印で示しています。待合室が3畳,診療室が6畳程度だったと言われています。中野歯科医院は,昭和41年に中野末作が亡くなるまで続きました。

 

図1   戦後の中野歯科医院。石塀に立て掛けてある映画館の武蔵野館(昭和43年に新宿武蔵野館に改名)の看板には「白い崖」の文字が読み取れる。白い崖は昭和35年に製作された今井正監督の映画であることから,昭和35年頃に撮影されたと思われる。

 

図2   練塀町の地図(昭和29年)。赤い矢印は,カメラの向きを示す。青い点線で囲んだ部分は,現在再開発中の地区。

 

昭和40年代の末に中野歯科医院は取り壊され,そこに新築されたビルに入ったのが居酒屋の大八です(図3 )。大八は美味しくてボリュームもある地元の人気店でした。

https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131001/13025117/

 

大八は,そこで約40年営業を続け,再開発のため2016年3月29日に閉店しました。

https://pbs.twimg.com/media/Cdanj4XUAAAj0kx.jpg

 

図3  大八(平成24年撮影)

 

 

写真の提供と中野歯科医院のお話をして頂いた中野仁史氏(中野末作の孫)に感謝を申し上げます。

中野仁史氏の紹介:著述業。昭和36年2月13日,神田練塀町51で生まれる。昭和42年に九段南4丁目に転居するまで佐久間幼稚園(現在のいずみこども園)に通う。現在は文京区白山に居住するが,父の中野進(昭和3年~平成28年)から中野ビルを受け継いだことから,神田練塀町地区市街地再開発組合の幹事を務めている。