昭和20年3月10日午前0時8分,アメリカ空軍のB29爆撃機約300機が東京上空に来襲しました。まず先発部隊が,向島区,本所区,城東区,深川区,下谷区,浅草区にまたがる40平方kmの周囲にナパーム焼夷弾を落として火の壁をつくり,住民を猛火の中に閉じこめて退路を断ちました。次に後続部隊がその炎の輪の中へ約100万発と言われる焼夷弾を落として家屋などを燃やし,逃げまどう住民に機銃掃射を浴びせました。この空襲(東京大空襲)で東京の4割が焦土と化し,8~12万人が死亡,約100万人が被災しました。
図1は,空襲被災地図です。練塀町は,東京大空襲で全焼しました。練塀町の人たちは,焼けなかった練塀小学校(後の二長町小学校)方面に避難して助かったそうです。
図1 空襲被災地図。太田稔著「重ね地図シリーズ東京 マッカーサーの時代編」より転載。茶色の領域は,空襲焼失エリア。青色の実線で囲んだ領域は,練塀町。
図2は,東京大空襲の被害状況を,当時17歳だった中野進(昭和3年~平成28年)さんが後に記憶を頼りに書き起こしたものです。中野進さんは,赤ん坊の弟を背負って,桐淵眼科の西側(図2中の①)→ 昭和通り(図2中の②)を通って避難しました。最終的に中野家は,下谷区(現在の台東区)の竹町公園まで逃げて生き延びました。竹町公園の周囲は,数少ない火災を免れた地域で,現在も戦前の銅板建築が残っています。
図2 東京大空襲,練塀町の被害状況(中野進氏作成)。×印が焼夷弾が落ちた場所で,それに○印があるのは火災が発生したことを示している。また,日通と貨物駅の間(現在の大東ビルのあたり)に児童公園(地図の表記では遊園地)があり,その南端に防火用水池があったことが記されている。資料提供は,中野仁史氏(中野進氏長男)。
4発の焼夷弾が落ちて出火した場所は,中野歯科医院(後の中野ビル)北側の通路,現在はパークタワー秋葉原と再開発地区の間にある路地です。現在の様子を図3に示します。
図3 東京大空襲で出火した地点の現在の様子(平成30年8月撮影)。左は再開発地区,右はパークタワー秋葉原。正面奥は,富士ソフトアキバプラザ。
資料の提供および,貴重なお話をして頂きました中野仁史氏に感謝いたします。
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