安政5年の大火

 

安政5年11月15日(1858年12月19日)は,北風が烈しく吹く日でした。下谷練塀小路の若林源作邸から出火した火災は,同屋敷に連なる武家屋敷に次々と延焼しました。炎は佐久間町へと広がり,和泉橋も焼き落とし柳原堤を乗り越えて神田一円を残らず焼き,京橋付近まで延焼しました。この火災による被害は,およそ長さ延べ2.5 km,幅は平均して800 mほど,町家が町数にして259町,武家屋敷80軒ほどと記録されています。

図1と図2は火災の被災地(黒く塗られていない部分)を記した資料ですが,下谷練塀小路の若林源作店が出火地点と記されています。店と書かれているので,商家だったのかもしれません。

 

図1   下谷練塀小路出火,焼場薄朱色彩色入二枚組(安政5年)の1。赤色の線で囲んだ部分には,「出火下谷練り屏い小路若林源作店」と書かれている。若林源作邸と推定される地点を,赤色の丸印で記した。

 

図2   下谷練塀小路出火,焼場薄朱色彩色入二枚組(安政5年)の2。赤色の線を引いた部分には,「下谷ねりべいこうじ辺が出火して」と書かれている。

 

若林源作邸の存在は,江戸切絵図でも確認することができます(図3)。若林源作邸があった場所は,秋葉原UDX(千代田区外神田四丁目)辺りと推測されます。

 

図3     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。若林源作邸を赤色の実線で囲んだ。青色の破線は,現在の練塀町と推定される地域。

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中西忠兵衛

 

江戸時代,下谷練塀小路に中西派一刀流の剣術道場(中西道場)がありました(図1)。中西派一刀流(中西一刀流)は第九代の中西忠兵衛(中西忠兵衛子正)の時代に隆盛を極め,江戸でも一,二と云われていました。中西一刀流は,小野一刀流の分派であり,中西一刀流からさらに分派したのが,北辰一刀流です。

北辰一刀流を創始した千葉周作(寛政5年(1793年)-安政2年(1856年))は,中西派一刀流の浅利義信(安永7年(1778年)-嘉永6年(1853年))に入門し,浅利義信の養子となり,義信の師匠である中西兵衛子正からも学びました。やがて独立して北辰一刀流を創始し,神田於玉ヶ池に玄武館という道場をつくりました。

千葉周作が自らの流派を開くことを決意したため,浅利義信は千葉周作を義絶しました。代わりに迎えられた養子が,中西忠兵衛子正の次男である兜七郎です。中西兜七郎は,浅利又七郎義明を名乗り,江戸無血開城に貢献した山岡鉄舟(天保7年(1836年) -明治21年(1888年))らを育てました。

浅利義信や千葉周作も通った中西道場,残念ながら跡は残っていません。

 

図1     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。中西道場を赤色で囲んだ。青色の破線は,現在再開発地区になっている。

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手塚良斎

 

図1は幕末の江戸切絵図で,下谷練塀小路(現在の練塀町)に手塚良斎という名前が見えます。手塚良斎(手塚良庵)(文政9年(1826年)-明治10年(1877年))は,蘭方医でした。医の道を志して手塚良仙光照(良仙光照)に入門し,弘化元(1844)年に良仙光照の次女と結婚して手塚家の婿養子となりました。安政2年(1855)に緒方洪庵が大阪に開いた適塾に入門,当時適塾で学んでいた福沢諭吉と学友になり,福澤の著書『福翁自伝』にも名前が出てきます。 その後江戸へ帰ってからは,大槻俊斎(文化3年(1806年)-文久2年(1862年))らと共にお玉が池種痘所の開設に尽力しました。

大槻俊斎は,良仙光照の長女と結婚していたので,手塚良斎と親戚関係にありました。大槻俊斎は,お玉が池種痘所の開設後,初代頭取(所長)となりました。その後,お玉が池種痘所は,西洋医学所,医学所等と改称し,東京大学医学部に発展しました。

手塚良斎の息子が手塚太郎(文久2年-昭和7年)です。手塚太郎は法律家で,関西法律学校(現在の関西大学)の創立者であり,長崎控訴院長を務めました。手塚太郎は「チャキチャキの江戸っ子弁で講義した」との逸話が残っていますが(湯川敏治,関西大学年史紀要 10) ,練塀小路で生まれ育ったのですね。

手塚太郎は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で晩年を過ごしましたが,その家で育った孫が手塚治(手塚治虫)(昭和3年-平成元年)です。手塚治虫は,曾祖父である手塚良斎を主人公として,『陽だまりの樹』という漫画を執筆しました。

 

図1     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。手塚良斎邸と大槻俊斎邸を赤色で囲んだ。青色の破線は,現在再開発地区になっている。赤矢印は図2のカメラの方向を示す。

 

手塚良斎邸と大槻俊斎邸は,練塀町3番地付近にあったと推測されます。長らく練塀町3番地は日本通運の所有になっていました。昭和30年代,40年代は整備工場になっていて,スチームでトラックのシャーシを洗うニオイが立ちこめていた(中野仁史氏談)そうですが,その後は日本通運秋葉原支店になりました。日本通運秋葉原支店は,2016年に再開発のため取り壊されました。

http://skyskysky.net/photo2/201841/201607/3.jpg

 

図2は,現在の様子です。

 

図2  2018年8月撮影

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