関東大震災

 

図1は,関東大震災の被災状況を示した地図で,赤い部分は焼失した地域です。東京の東半分は,真っ赤,つまり焼けてしまったことがわかります。図2は,練塀町付近を拡大したものです。練塀町は,一部(今の再開発地域の南半分)を残して焼け,江戸時代を偲ぶ建物もなくなってしまいました。近隣の和泉町は,町民の必死の消火活動で延焼を免れました。

 

図1  東京大震火災地図,大正12年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。

 

図2  東京大震火災地図,大正12年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。練塀町を青色の実線で囲み,秋葉原貨物駅を赤色の実線で囲んだ。

 

図2を見ると,大正12年当時,秋葉原駅は貨物駅だったことが分かります。山手線は,まだ環状になっておらず,秋葉原貨物駅と神田駅は接続されていませんでした。また,大正12年当時,中央線には万世橋駅があり,東京駅→神田駅→万世橋駅→御茶ノ水駅を通っていました。

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明治2年相生町の大火

 

明治2年12月12日(1870年1月13日),神田相生町20番地の塗師職金次郎方から出火。この火災でおよそ1100戸が焼失し,練塀町は被害が少なかったもの近隣8か町が全焼しました。この大火を機に東京府は,9000戸の町家を整理して火除け用の空き地(火除地)をつくり,火の神の火産霊大神(ほむすびのおおかみ),水の神の水波能売神(みずはのめのかみ),土の神の埴山毘売神(はにやまひめのかみ)の三柱を祭神として勧請し,町を火災から守る鎮火社(鎮火神社)を創建しました。この鎮火社は,明治6年に神田明神の管轄となり,明治7年には火除地の住所が神田花岡町に変わりました。それまで,鎮火社が置かれた場所は神田平河町に属していました。

 

図1  東京五千分の壱実測図,明治20年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。火元の神田相生町20番地を赤い実線で囲んだ。また,火除地を青い実線で囲んだ。町名が花岡町ではなく花房町と書いてあるのは,誤記か。

 

火産霊大神が祭神であったのにも関わらず,被災した市民は,当時,火防(ひぶせ)の神として有名であった秋葉大権現が勧請されたものと思い,この鎮火社を秋葉様または秋葉さんとよぶようになりました。そして,鎮火社のある火除地は,秋葉さんの原っぱ(あきばはら),転じて秋葉原(あきはばら)とよばれるようになりました。その後,明治21年(1888年)に火除地に秋葉原駅が建設されたとき,鎮火社は秋葉神社として台東区松が谷に移転しました。

鎮火社(後の秋葉神社)が神田平河町に置かれた歴史的経緯から,神田祭のとき佐久二平河町会の神輿は秋葉原昭和通り口から秋葉原駅に入ります。次に見る機会は,2019年5月12日夕方の予定です。

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安政5年の大火

 

安政5年11月15日(1858年12月19日)は,北風が烈しく吹く日でした。下谷練塀小路の若林源作邸から出火した火災は,同屋敷に連なる武家屋敷に次々と延焼しました。炎は佐久間町へと広がり,和泉橋も焼き落とし柳原堤を乗り越えて神田一円を残らず焼き,京橋付近まで延焼しました。この火災による被害は,およそ長さ延べ2.5 km,幅は平均して800 mほど,町家が町数にして259町,武家屋敷80軒ほどと記録されています。

図1と図2は火災の被災地(黒く塗られていない部分)を記した資料ですが,下谷練塀小路の若林源作店が出火地点と記されています。店と書かれているので,商家だったのかもしれません。

 

図1   下谷練塀小路出火,焼場薄朱色彩色入二枚組(安政5年)の1。赤色の線で囲んだ部分には,「出火下谷練り屏い小路若林源作店」と書かれている。若林源作邸と推定される地点を,赤色の丸印で記した。

 

図2   下谷練塀小路出火,焼場薄朱色彩色入二枚組(安政5年)の2。赤色の線を引いた部分には,「下谷ねりべいこうじ辺が出火して」と書かれている。

 

若林源作邸の存在は,江戸切絵図でも確認することができます(図3)。若林源作邸があった場所は,秋葉原UDX(千代田区外神田四丁目)辺りと推測されます。

 

図3     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。若林源作邸を赤色の実線で囲んだ。青色の破線は,現在の練塀町と推定される地域。

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