戦時中の神田練塀町町会

 

図1は,戦時中に秋葉原町会の町会長を務めた中野末作が遺した町常会記録です。表紙を見ると,いろいろな疑問が浮かびます。

 

秋葉原町会って?

現在の秋葉原町会は,台東区秋葉原にあります。もともと台東区秋葉原は,練塀町と松永町の一部でした。戦時中の地名は,それぞれ下谷区練塀町,下谷区松永町であり,一緒に練松町会をつくっていました。一方,戦時中の神田区練塀町と神田区松永町は,一緒に秋葉原町会をつくっていました。

 

常会って?

昭和15年9月の内務省訓令第17号「部落会町内会等整備要領」によって,町内会は正式に市町村の下部組織として制度化されました。この要領によって,町会は「常会」という集会を開き,その模様(伝達,報告,協議,申合,その他隣組に関する一切のこと)を詳細に記録することが求められました。

 

 

秋葉原町会の町常会記録には,次のような方々のお名前が記されています(順不同,敬称略)。この人たちは,秋葉原町会の町会役員であった方々です。ご存命であれば,確実に100歳を越えています。

鰐淵万次郎

中野末作

石原重一

深田栄次郎

内田賢治

中島仲右衛門

関口昇之

中山政吉

小西初太郎

小澤徳一

岡山繁蔵

後藤信繁

赤池高政

高菱幹夫

竹中勇次郎

丸山隆司

田崎たか

 

図1  戦時中の秋葉原町会の町常会記録

 

貴重な資料を提供して頂きました中野仁史氏に感謝いたします。

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練塀小学校と練成小学校

練塀町の子どもは,世代で通った小学校・中学校が異なります。戦前生まれの長老は,下谷区にあった練塀小学校に通いました。練塀町の子どもが下谷区の小学校に通った理由は,練塀町は昭和18年まで下谷区(現在の台東区)に属していたからです。

練塀小学校(図1)は,明治11年に開校しました。創立当時の名称は,下谷練塀小学校でした。下谷練塀小学校は,関東大震災により焼失し,下谷区仲御徒町五九番地(現在の台東区上野5丁目)から二長町二番地の二(台東区台東1丁目)に移転しました(台東区正史行政編)。その後,練塀国民学校(当時の練塀小学校)は,昭和20年3月10日の東京大空襲では焼失を免れましたが,昭和20年4月3日の空襲で相当の被害を受けました。昭和21年に御徒町小学校と統合して,二長町小学校になりました。二長町小学校は,平成2年に竹町小学校と統合して,台東区立平成小学校になりました。練塀小学校(二長町小学校)の跡地(台東区台東1-25)は,現在台東区役所台東地区センターになっています。

 

図1  練塀小学校(明治時代)

二長町小学校の写真は,次のブログで見ることができます。https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/89da7adbb02d66b9d6e342cbd146acab

 

戦後から昭和55年頃までに生まれた人たちは,佐久間小学校と練成中学を卒業した方が多いです。

佐久間小学校は,明治35年に開校しました。昭和8年に現在の場所(神田和泉町)に移転し,跡地(神田佐久間町4)は佐久間公園になりました。その後,佐久間小学校は,平成5年に今川小学校と統合して,千代田区立和泉小学校になりました。

練成中学の前身は,明治11年に開校した下谷練塀小学校です。下谷練塀小学校は,明治24年に下谷練塀小学校と神田練塀小学校に分割されました。神田練塀小学校は,明治31年に練成小学校に校名を改めました。練成小学校は,明治32年に現在の場所(千代田区外神田6,当時は神田区五軒町七番地)に移転しました。練成小学校は,昭和23年に練成中学校になりました。その後練成中学校は,平成17年に一橋中学校,今川中学校と統合して,千代田区立神田一橋中学校になりました。練成中学校の跡地(千代田区外神田6-11-14 )は,今3331アーツ千代田になっています。

3331アーツ千代田    https://www.3331.jp/about/

現在,練塀町に住む子ども達の多くは,和泉小学校に行っています。千代田区の中学校は学校選択制 になったので,麹町中学か神田一橋中学を選択することができます。

練塀小学校(二長町小学校)や練成小学校(練成中学校)のように,現在練塀町ではない場所にある学校に練塀の名前が付いているのが不思議です。明治時代初期の練塀町はもっと広かったのか,もともと二つの学校は練塀町に存在したのか,もう少し調査が必要です。なお,練塀小学校の跡は,現在の神田練塀町には残されていません。

 

【平成30年8月21日追記】

東京五千分の壱実測図をみると,明治20年に練塀小学校が下谷区練塀町41番地にあったことは確かなので,開校当時(明治11年)練塀小学校は練塀町にあったと思われます。その後,関東大震災(大正12年)までの間に下谷区仲御徒町五九番地に移転したと考えられます。

 

図2  東京五千分の壱実測図,明治20年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。赤い実線で囲んだ部分(下谷区練塀町41番地)に練塀小学校と書いてあるのが分かる。青い実線で囲んだ部分は,関東大震災当時に練塀小学校が存在していた場所(下谷区仲御徒町五九番地)。

 

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秋葉原駅と運河

この秋葉原駅の写真(図1)は,撮影された年代が伝わっていませんが,女学生が袴を着用していること,背広を着た男性がカンカン帽を被っていることから,おそらく大正時代と思われます。中央の鉄柵は改札で,駅員さんが見えます。この頃,自動改札機はなく,駅員さんが切符にハサミを入れていました。カメラは,秋葉原駅昭和通り口の内側から外側に向いています(図2)。一方,図3の写真は,現在の秋葉原駅昭和通り口の様子です。

 

図1 秋葉原駅昭和通り口(大正年間に撮影?)

 

図2 運河と船着き場が載っている秋葉原駅付近の地図(昭和22年)。青矢印は,図1の写真を撮った方向。青線で囲んだ部分は,現在ヨドバシAkibaになっている。ヨドバシAkiba南半分と秋葉原駅中央口のロータリーは,昔船着き場だった。また,赤矢印は,図4の写真を撮った方向。赤線で囲んだ部分は,現在秋葉原公園になっている。

 

図3 現在の秋葉原駅昭和通り口(平成30年7月撮影)改札口を出て左に進むとヨドバシAkiba,右に進むと秋葉原公園。

 

図1の正面奥に切符売り場が見えますが,その背後に運河が通っていました。運河は明治時代からありました。

http://2.bp.blogspot.com/-X2zQyHHu5_Y/T0C96au8vNI/AAAAAAAAAhU/ZKuE_GWc47o/s640/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88+2012-02-19+18.12.00.jpg

運河の存在は,図2の地図でも確認できます。神田川から運河に入った舟は,船着き場で野菜を降ろし,そこから野菜は(通称)“やっちゃば”(神田青果市場)へと運ばれました。やがて物流の中心が船から鉄道とトラックに変わったため,運河と船着き場は昭和20年代に埋め立てられました。

運河と船着き場が埋め立てられた後,運河の入り口は佐久間橋児童遊園,運河は秋葉原公園になりました。運河にかかっていた佐久間橋は道路になり,道路の下には佐久間橋児童遊園と秋葉原公園をつなぐトンネルができました。トンネルをくぐって二つの公園を移動でき,練塀町の子どもたちの遊び場になっていたそうです。

その子どもたちが大きくなる頃,トンネルは埋められました。その後の秋葉原公園(旧秋葉原公園)も,運河だった名残で地面が一段下がっていました。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/95/89befe9cdf101b1da57579102d77e1e5.jpg

秋葉原公園は,2014年に大規模に改修され現在のようになりました(図4)。

 

図4  秋葉原公園 (平成30年8月撮影)。 正面にある街路樹の奥が千代田区役所和泉橋出張所。千代田区役所和泉橋出張所は,平成27年に佐久間橋児童遊園の敷地に移転した。

 

 

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