手塚良斎

 

図1は幕末の江戸切絵図で,下谷練塀小路(現在の練塀町)に手塚良斎という名前が見えます。手塚良斎(手塚良庵)(文政9年(1826年)-明治10年(1877年))は,蘭方医でした。医の道を志して手塚良仙光照(良仙光照)に入門し,弘化元(1844)年に良仙光照の次女と結婚して手塚家の婿養子となりました。安政2年(1855)に緒方洪庵が大阪に開いた適塾に入門,当時適塾で学んでいた福沢諭吉と学友になり,福澤の著書『福翁自伝』にも名前が出てきます。 その後江戸へ帰ってからは,大槻俊斎(文化3年(1806年)-文久2年(1862年))らと共にお玉が池種痘所の開設に尽力しました。

大槻俊斎は,良仙光照の長女と結婚していたので,手塚良斎と親戚関係にありました。大槻俊斎は,お玉が池種痘所の開設後,初代頭取(所長)となりました。その後,お玉が池種痘所は,西洋医学所,医学所等と改称し,東京大学医学部に発展しました。

手塚良斎の息子が手塚太郎(文久2年-昭和7年)です。手塚太郎は法律家で,関西法律学校(現在の関西大学)の創立者であり,長崎控訴院長を務めました。手塚太郎は「チャキチャキの江戸っ子弁で講義した」との逸話が残っていますが(湯川敏治,関西大学年史紀要 10) ,練塀小路で生まれ育ったのですね。

手塚太郎は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で晩年を過ごしましたが,その家で育った孫が手塚治(手塚治虫)(昭和3年-平成元年)です。手塚治虫は,曾祖父である手塚良斎を主人公として,『陽だまりの樹』という漫画を執筆しました。

 

図1     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。手塚良斎邸と大槻俊斎邸を赤色で囲んだ。青色の破線は,現在再開発地区になっている。赤矢印は図2のカメラの方向を示す。

 

手塚良斎邸と大槻俊斎邸は,練塀町3番地付近にあったと推測されます。長らく練塀町3番地は日本通運の所有になっていました。昭和30年代,40年代は整備工場になっていて,スチームでトラックのシャーシを洗うニオイが立ちこめていた(中野仁史氏談)そうですが,その後は日本通運秋葉原支店になりました。日本通運秋葉原支店は,2016年に再開発のため取り壊されました。

http://skyskysky.net/photo2/201841/201607/3.jpg

 

図2は,現在の様子です。

 

図2  2018年8月撮影

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町常会記録を読んで

 

図1と図2は,昭和20年1月26日に開かれた町常会の記録です。
手書きで分かりにくいですが,以下のようなことが書かれています。

——–
昭和20年1月26日町常会
日程及報告

報告 防務幹事推薦の件

議案(1) 罹災者生活必需物資供出買上に関する件
(2) 間引建物疎開に関する件
(3) 牛乳及乳製品配給証明書改正に関する件
(4) 組長と群長専任に関する件
(5) 居住者登録調査の件
(6) 警防費と銃後奉公会費に関する件
(7) 商業報国会出費に関する件
(8) 古紙と塵紙交換の件
(9) 倉庫空家等防火設備要請に関する件

十八隣組の内三組,十四組,十六組 欠席
二組,七組,十二組,十三組 以上代人
——–

 

図1 町常会記録,昭和20年1月26日1ページ目,中野仁史氏提供

 

図2 町常会記録,昭和20年1月26日2ページ目,中野仁史氏提供

 

活動の内容が今の町会と全く違います。今の町会は,神田祭,納涼大会,区民体育大会,その他地域のイベント,夜警,歳末助け合い運動,交通安全週間運動,防災訓練など町内の親睦,互助,連絡などの活動が中心になっています。一方,戦時中の町会は,今なら区役所(や区役所の出張所)がやっているような行政の一端を担っていたことがわかります。たとえば,(5)居住者登録調査の件ですが,住民台帳の管理が町会で行われていたことを示しています。戦時中は,配給制度が実施され,異動申告書の受付と台帳整備,米穀通帳などの異動処理は,町会の仕事でした。

図3は衣料切符(衣料を配給するために政府が発行した点数制の切符)ですが,秋葉原町会長の印が押されています。町会は,国民経済生活の地域的統制単位として,統制経済の運用と国民生活の安定に力を尽くしておりました。

 

図3 戦時中の衣料切符,中野仁史氏提供

 

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秋葉原貨物駅の1階部分

図1の写真は,秋葉原貨物駅の1階部分の写真です。もう少し中に入って撮った写真が図2です。図2の写真で秋葉原貨物駅の奥に見える建物に,東京青果株式会社の看板が下がっているので,図3に示す方向から撮影した写真であることがわかります(訂正あり)。

図1,図2は,重ね焼き写真ですが,どちらにもサンキスト(Sunkist)という文字が見えます。サンキストブランドの米国産レモン(サンキストレモン)が日本で本格的に販売されるようになったのは,神田青果市場ができた翌年(昭和4年)です。日本人の食生活が変化して,洋食に必要な柑橘類が好まれるようになったことと関係があります。昭和4年のサンキストレモンの輸入量は,1万カートン(1カートンは,16 kgの木箱入り)でした。それが,神田青果市場が移転した2年後の平成4年には,400万カートン(1カートンは,17 kgのダンボール箱入り)まで増えました。

 

図1  昭和60年代に撮影。倉田精二  AKB 80’sより転載

 

図2  昭和60年代に撮影。倉田精二  AKB 80’sより転載

 

図3  練塀町の地図(昭和29年)。青い矢印は,写真を撮った方向を示す。青い破線で囲んだ部分が東京青果。

 

東京青果は平成元年5月に大田市場に移転しました。東京青果株式会社があった場所は,現在大東ビルになっている辺りと推測されますが,昔のものは何も残っていません(図4,訂正あり)。

 

図4  東京青果株式会社があった辺りの現在の様子(平成30年8月撮影)。(訂正あり)

 

記事訂正(2020年5月13日)

東京青果興業と東京青果株式会社は違う会社ということが分かりました。東京青果興業は現在大東ビルディング㈱となっています。東京青果株式会社は,今も大田市場で営業を続けています。ここに訂正いたします。

すると,図2の写真を撮った位置の推定(図3)が間違っていたことになります。どなたか,東京青果株式会社が神田市場のどこにあったのかご存知でしょうか。

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