練塀町の路地3

 

図1の写真は,昭和51年の神田練塀町です。写真を撮った方向を図2に示します。図1の写真右側にムラタヤという文字が見えます。ムラタヤは食料品卸の会社です。神田青果市場から仕入れた食料品を袋詰めにして出荷していたので,店の前にいつも配送のトラックが止まっていたそうです。現在の様子を図3に示します。ムラタヤビルに変わっていますが,ムラタヤは現在もビルの裏側で営業中です。

 

図1  昭和51年10月12日撮影,田口重久氏提供

 

図2  練塀町の地図(昭和29年)。赤い矢印は,図1の写真を撮った方向を示す。

 

図3  現在の様子(平成30年8月撮影)。写真向かって右側がムラタヤビル正面。正面奥の木々に囲まれた部分が秋葉原練塀公園。

 

神田青果市場が移転した後,図1の写真左側の建物は取壊され,やがてつくばエクスプレスの工事が始まりました。その当時(2004年7月)の写真が残っています。その付近の現在の様子を図4に示します。路地が拡張されました。

http://sotokanda.org/shigeno/d/img/20040703g.jpg

 

図4  現在の様子(平成30年8月撮影)。写真向かって左側は,秋葉原練塀公園。

 

写真の使用を許可して頂いた田口重久氏に感謝いたします。http://masanori1919.web.fc2.com/

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中西忠兵衛

 

江戸時代,下谷練塀小路に中西派一刀流の剣術道場(中西道場)がありました(図1)。中西派一刀流(中西一刀流)は第九代の中西忠兵衛(中西忠兵衛子正)の時代に隆盛を極め,江戸でも一,二と云われていました。中西一刀流は,小野一刀流の分派であり,中西一刀流からさらに分派したのが,北辰一刀流です。

北辰一刀流を創始した千葉周作(寛政5年(1793年)-安政2年(1856年))は,中西派一刀流の浅利義信(安永7年(1778年)-嘉永6年(1853年))に入門し,浅利義信の養子となり,義信の師匠である中西兵衛子正からも学びました。やがて独立して北辰一刀流を創始し,神田於玉ヶ池に玄武館という道場をつくりました。

千葉周作が自らの流派を開くことを決意したため,浅利義信は千葉周作を義絶しました。代わりに迎えられた養子が,中西忠兵衛子正の次男である兜七郎です。中西兜七郎は,浅利又七郎義明を名乗り,江戸無血開城に貢献した山岡鉄舟(天保7年(1836年) -明治21年(1888年))らを育てました。

浅利義信や千葉周作も通った中西道場,残念ながら跡は残っていません。

 

図1     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。中西道場を赤色で囲んだ。青色の破線は,現在再開発地区になっている。

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手塚良斎

 

図1は幕末の江戸切絵図で,下谷練塀小路(現在の練塀町)に手塚良斎という名前が見えます。手塚良斎(手塚良庵)(文政9年(1826年)-明治10年(1877年))は,蘭方医でした。医の道を志して手塚良仙光照(良仙光照)に入門し,弘化元(1844)年に良仙光照の次女と結婚して手塚家の婿養子となりました。安政2年(1855)に緒方洪庵が大阪に開いた適塾に入門,当時適塾で学んでいた福沢諭吉と学友になり,福澤の著書『福翁自伝』にも名前が出てきます。 その後江戸へ帰ってからは,大槻俊斎(文化3年(1806年)-文久2年(1862年))らと共にお玉が池種痘所の開設に尽力しました。

大槻俊斎は,良仙光照の長女と結婚していたので,手塚良斎と親戚関係にありました。大槻俊斎は,お玉が池種痘所の開設後,初代頭取(所長)となりました。その後,お玉が池種痘所は,西洋医学所,医学所等と改称し,東京大学医学部に発展しました。

手塚良斎の息子が手塚太郎(文久2年-昭和7年)です。手塚太郎は法律家で,関西法律学校(現在の関西大学)の創立者であり,長崎控訴院長を務めました。手塚太郎は「チャキチャキの江戸っ子弁で講義した」との逸話が残っていますが(湯川敏治,関西大学年史紀要 10) ,練塀小路で生まれ育ったのですね。

手塚太郎は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で晩年を過ごしましたが,その家で育った孫が手塚治(手塚治虫)(昭和3年-平成元年)です。手塚治虫は,曾祖父である手塚良斎を主人公として,『陽だまりの樹』という漫画を執筆しました。

 

図1     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。手塚良斎邸と大槻俊斎邸を赤色で囲んだ。青色の破線は,現在再開発地区になっている。赤矢印は図2のカメラの方向を示す。

 

手塚良斎邸と大槻俊斎邸は,練塀町3番地付近にあったと推測されます。長らく練塀町3番地は日本通運の所有になっていました。昭和30年代,40年代は整備工場になっていて,スチームでトラックのシャーシを洗うニオイが立ちこめていた(中野仁史氏談)そうですが,その後は日本通運秋葉原支店になりました。日本通運秋葉原支店は,2016年に再開発のため取り壊されました。

http://skyskysky.net/photo2/201841/201607/3.jpg

 

図2は,現在の様子です。

 

図2  2018年8月撮影

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