「もしも首都直下型震災が起こったなら?」講演会が開かれました。

10月22日(日)パークタワー秋葉原の1階ロビーにて「もしも首都直下型震災が起こったなら?」講演会が開かれました(神田練塀町町会とパークタワー秋葉原管理組合の共催)。演者は,警視庁万世橋署の警備課長古谷善行さんでした。講演は,動画を見ながら説明を聞く形で行われ,最後にパワーポイントファイルで補足説明とまとめが行われました。講演が終わった後には,活発な質疑討論が続きました。

印象に残ったことは,住民の自助が必要だということです。実際,阪神淡路大震災で警察や消防に助けられた人は1割で,多くの人は近所の人に助けられています。非常時には多くの人が警察や消防に救助を求めるため,連絡を受けてもその場所にたどり着けないのだそうです。

東日本大震災の時は,万世橋署には多くの人が殺到し身動きが取れなくなったそうです。その教訓をもとに,災害時には,(正式名称を忘れましたが)救助専門部隊を直ぐ現場に急行させる。大きなビルには避難所を開設する等の対策を立てているそうです。神田練塀町には今再開発されている地区があり(http://skyskysky.net/construction/201841.html),2年後に大きなビルが建ちます。そこには,千人以上の避難者を受け入れることができるように物資が用意される予定と聞きました。

警察や行政が災害に備えていろいろな準備をしていることが分かりましたが,それでも住民の自助努力が必要です。たとえば,器具で家具の転倒を防止するだけで,怪我人の発生を防ぐことができます。また,不幸にして怪我人が出ても,住民の中の医療関係者がトリアージュ(triage)をしておくことで,速やかに重症の患者さんを搬送することができます。

講演の最後に,東日本大震災のときの「釜石の奇跡」の話が出ました。岩手県釜石市内の小中学校の生徒3千人の生存率は99.8 %だったそうですが,これは行政(釜石市)による対策ではなく,現場の小中学校の先生方と大学の先生が立てていた対策だそうです。津波対策と震災対策は異なるので,まったく同じことはできないと思いますが,地元住民で震災に向けた対策を立てておく必要性を感じました。

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練塀小路

江戸時代の頃,練塀町は周囲をにぎやかな町屋(商人と職人の町)に囲まれ,立派な練塀がある落ち着いた武家の屋敷地でした。武家地には町名がないのが普通なので,江戸時代(1850年頃)の地図(図1)を見ると,町名は書かれておらず,通りの名前には「子リベイコウ●(ねりべいこうじ)」という通称が使われています。

図1     江戸切絵図集成 vol.3,中央公論社,p97より抜粋。子リベイコウ● (●はチに〃)の部分は,赤枠で囲んである。現在の秋葉原駅は,麹町平河町一丁目代地の辺りで,青枠で囲んである。

練塀町が正式な町名になったのは,明治5年(1872年)のことです。成立当時の戸数は75,人口は375人でした(東京府史料)。明治11年(1878年),町はいったん下谷区(現在の台東区)に編入されます。その後,昭和18年(1943年)に,南半分が神田区(現在の千代田区)に編入され,昭和22年(1947年),千代田区ができたときに神田練塀町になりました。

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