練塀町 町名の由来

神田練塀町と言えば「歌舞伎,講談」で有名な練塀小路の河内山宗俊を思い出す人が多いと思います。
ある文献によれば無味乾燥な町名が並ぶ中で「練塀町」という由緒ありげな町名は,元禄時代(1688‐1704 将軍徳川綱吉,1703の大地震,1707の富士山噴火)ここにあった「越後新発田藩主」溝口信濃守の屋敷に練塀がめぐらされていたことに由来します。
練塀と言うのは土塀の上に瓦を載せたものをいい,この辺を通称練塀小路と呼ボようになりました。練塀町の名が付いたのは明治以後です。
一方練塀小路は明治5年,練塀町となったのち明治11年下谷区に編入されました。
明治23年,ここに上野駅の貨物業務を分離した秋葉原貨物駅ができ,秋葉原公園(大東ビル)の隣には蒸気機関が走り,東北方面から送られた物資はここでさばかれ,近くの神田川などを利用して各地に運ばれました。
さらに大正12年の関東大震災後,西隣に神田青果市場が多町から移ってきて町は活気づきます。
昭和18年都制度の実施にともない,町の南半分は神田区に編入されて神田練塀町になり,戦後は千代田区に属し,その後,一部が外神田4丁目になりその都度,再開発の波にかぶり発展をとげた町会です。

談 中島光治前町会長

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