平成30年度神田祭(かげ祭)

 

平成30年度の神田祭では,5月14日(月)に明神能と献茶式,5月15日(火)に例大祭が執り行われました。例大祭は,神田祭を締めくくる最も大切な神事です。氏子総代代,氏子108町会の代表者,祭典委員をはじめ多くの方々が参列するなか,献饌,宮司祝詞奏上,巫女舞,献幣,玉串拝礼という流れで式が進みました。

例大祭の様子は,次の動画で見ることができます。

 

平成30年度(2018年)の神田祭はかげ祭でしたので,神輿宮入はありませんでした。次回の神輿宮入は,2019年5月12日(日)の予定です。

平成29年(2017年)の神田祭で神田練塀町町会は,佐久間町四丁目町会のお神輿を担がせて頂きました。その様子は,次の動画で見ることができます。

 

神田練塀町は,再開発が進んだ地域で住民の多くは新しく移り住んだ方々です。そのような状況で,神田練塀町町会は,神田祭の伝統を受け継ぎながら,新しく移り住んだ方々にも神田祭に参加してもらって新しい祭のかたちをつくり,町を盛り上げようとしています。そのような神田練塀町町会の取り組みが,昨年新聞記事で紹介されましたので,ぜひご覧ください(有料記事)。

2017年5月15日 毎日新聞地方版    https://mainichi.jp/articles/20170515/ddl/k13/040/007000c

スポンサーリンク

東京大空襲

 

昭和20年3月10日午前0時8分,アメリカ空軍のB29爆撃機約300機が東京上空に来襲しました。まず先発部隊が,向島区,本所区,城東区,深川区,下谷区,浅草区にまたがる40平方kmの周囲にナパーム焼夷弾を落として火の壁をつくり,住民を猛火の中に閉じこめて退路を断ちました。次に後続部隊がその炎の輪の中へ約100万発と言われる焼夷弾を落として家屋などを燃やし,逃げまどう住民に機銃掃射を浴びせました。この空襲(東京大空襲)で東京の4割が焦土と化し,8~12万人が死亡,約100万人が被災しました。

図1は,空襲被災地図です。練塀町は,東京大空襲で全焼しました。練塀町の人たちは,焼けなかった練塀小学校(後の二長町小学校)方面に避難して助かったそうです。

 

図1 空襲被災地図。太田稔著「重ね地図シリーズ東京 マッカーサーの時代編」より転載。茶色の領域は,空襲焼失エリア。青色の実線で囲んだ領域は,練塀町。

 

図2は,東京大空襲の被害状況を,当時17歳だった中野進(昭和3年~平成28年)さんが後に記憶を頼りに書き起こしたものです。中野進さんは,赤ん坊の弟を背負って,桐淵眼科の西側(図2中の①)→ 昭和通り(図2中の②)を通って避難しました。最終的に中野家は,下谷区(現在の台東区)の竹町公園まで逃げて生き延びました。竹町公園の周囲は,数少ない火災を免れた地域で,現在も戦前の銅板建築が残っています。

 

図2  東京大空襲,練塀町の被害状況(中野進氏作成)。×印が焼夷弾が落ちた場所で,それに○印があるのは火災が発生したことを示している。また,日通と貨物駅の間(現在の大東ビルのあたり)に児童公園(地図の表記では遊園地)があり,その南端に防火用水池があったことが記されている。資料提供は,中野仁史氏(中野進氏長男)。

 

4発の焼夷弾が落ちて出火した場所は,中野歯科医院(後の中野ビル)北側の通路,現在はパークタワー秋葉原と再開発地区の間にある路地です。現在の様子を図3に示します。

 

図3 東京大空襲で出火した地点の現在の様子(平成30年8月撮影)。左は再開発地区,右はパークタワー秋葉原。正面奥は,富士ソフトアキバプラザ。

 

資料の提供および,貴重なお話をして頂きました中野仁史氏に感謝いたします。

スポンサーリンク

関東大震災

 

図1は,関東大震災の被災状況を示した地図で,赤い部分は焼失した地域です。東京の東半分は,真っ赤,つまり焼けてしまったことがわかります。図2は,練塀町付近を拡大したものです。練塀町は,一部(今の再開発地域の南半分)を残して焼け,江戸時代を偲ぶ建物もなくなってしまいました。近隣の和泉町は,町民の必死の消火活動で延焼を免れました。

 

図1  東京大震火災地図,大正12年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。

 

図2  東京大震火災地図,大正12年(千代田区立日比谷図書館文化館特別研究室所蔵)。練塀町を青色の実線で囲み,秋葉原貨物駅を赤色の実線で囲んだ。

 

図2を見ると,大正12年当時,秋葉原駅は貨物駅だったことが分かります。山手線は,まだ環状になっておらず,秋葉原貨物駅と神田駅は接続されていませんでした。また,大正12年当時,中央線には万世橋駅があり,東京駅→神田駅→万世橋駅→御茶ノ水駅を通っていました。

スポンサーリンク